P--947 P--948 P--949 #1教行信証大意    教行信証大意 【1】 そもそも高祖聖人(親鸞)の真実相承の勧化をきき、その流をくまんとお もはんともがらは、あひかまへてこの一流の正義を心肝にいれて、これをうか がふべし。しかるに近代はもつてのほか法義にも沙汰せざるところのをかしき 名言をつかひ、あまつさへ法流の実語と号して一流をけがすあひだ、言語道 断の次第にあらずや。よくよくこれをつつしむべし。しかれば当流聖人(親 鸞)の一義には、教・行・信・証といへる一段の名目をたてて一宗の規模とし て、この宗をば開かれたるところなり。このゆゑに親鸞聖人、一部六巻の書を つくりて『教行信証文類』と号して、くはしくこの一流の教相をあらはした まへり。しかれども、この書あまりに広博なるあひだ、末代愚鈍の下機におい てその義趣をわきまへがたきによりて、一部六巻の書をつづめ肝要をぬきいで て一巻にこれをつくりて、すなはち『浄土文類聚鈔』となづけられたり。この P--950 書をつねにまなこにさへて一流の大綱を分別せしむべきものなり。その教・ 行・信・証・真仏土・化身土といふは、  第一巻には真実の教をあらはし、  第二巻には真実の行をあらはし、  第三巻には真実の信をあらはし、  第四巻には真実の証をあかし、  第五巻には真仏土をあかし、  第六巻には化身土をあかされたり。 【2】 第一に真実の教といふは、弥陀如来の因位・果位の功徳を説き、安養浄 土〔の〕依報・正報の荘厳ををしへたる教なり。すなはち『大無量寿経』これ なり。総じては三経にわたるべしといへども、別しては『大経』をもつて本と す。これすなはち弥陀の四十八願を説きて、そのなかに第十八の願をもつて衆 生生因の願とし、如来甚深の智慧海をあかして唯仏独明了の仏智を説きのべ たまへるがゆゑなり。 【3】 第二に真実の行といふは、さきの教にあかすところの浄土の行なり。こ P--951 れすなはち南無阿弥陀仏なり。第十七の諸仏咨嗟の願にあらはれたり。名号は もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。衆行の根本、万善の総体な り。これを行ずれば西方の往生を得、これを信ずれば無上の極証をうるものな り。 【4】 第三に真実の信といふは、上にあぐるところの南無阿弥陀仏の妙行を真 実報土の真因なりと信ずる真実の心なり。第十八の至心信楽の願のこころな り。これを選択回向の直心ともいひ、利他深広の信楽ともなづけ、光明摂護の 一心とも釈し、証大涅槃の真因とも判ぜられたり。これすなはちまめやかに真 実の報土にいたることは、この一心によるとしるべし。 【5】 第四に真実の証といふは、さきの行信によりてうるところの果、ひらく ところのさとりなり。これすなはち第十一の必至滅度の願にこたへてうるとこ ろの妙悟なり。これを常楽ともいひ、寂滅ともいひ、涅槃ともいひ、法身とも いひ、実相ともいひ、法性ともいひ、真如ともいひ、一如ともいへる、みなこ のさとりをうる名なり。もろもろの聖道門の諸教のこころは、この父母所生の 身をもつて、かのふかきさとりをここにてひらかんとねがふなり。いま浄土門 P--952 のこころは、弥陀の仏智に乗じて法性の土にいたりぬれば、自然にこのさとり にかなふといふなり。此土の得道と他土の得生と異なりといへども、うるとこ ろのさとりはただひとつなりとしるべし。されば往生といへるも実には無生な り。この無生のことわりをば安養にいたりてさとるべし。その位をさして真実 の証といふなり。 【6】 第五に真仏土といふは、まことの身土なり。すなはち報仏・報土なり。 仏といふは不可思議光如来、土といふは無量光明土なりといへり。これすな はち第十二・第十三の光明・寿命の願にこたへてうるところの身土なり。諸仏 の本師はこれこの仏なり。真実の報身はすなはちこの体なり。 【7】 第六に化身土といふは、化身・化土なり。仏といふは、『観経』の真身観 に説くところの身なり。土といふは『菩薩処胎経』に説くところの懈慢界、ま た『大経』に説ける疑城胎宮なりとみえたり。これすなはち第十九の修諸功徳 の願より出でたり。ただしうちまかせたる教義には『観経』の真身観の仏をも つて真実の報身とす。和尚(善導)の釈(定善義)、すなはちこのこころをあか せり。真身観といへる名あきらかなり。しかるにこれをもつて化身と判ぜられ P--953 たる、常途の教相にあらず。これをこころうるに、『観経』の十三観は定散二 善のなかの定善なり。かの定善のなかに説くところの真身観なるがゆゑに、か れは観門の所見につきてあかすところの身なるがゆゑに、弘願に乗じ、仏智を 信ずる機の感見すべき身に対するとき、かの身はなほ方便の身なるべし。すな はち六十万億の身量をさして分限をあかせる真実の身にあらざる義をあらはせ り。これによりて聖人(親鸞)、この身をもつて化身と判じたまへるなり。土は 懈慢界といひ、また疑城胎宮といへる、そのこころを得やすし。ふかく罪福を 信じ、善本を修習して不思議の仏智を決了せず、疑をいだける行者の生るる ところなるがゆゑに真実の報土にはあらず。これをもつて化土となづけたるな り。これわが聖人のひとりあかしたまへる教相なり。たやすく口外に出すべか らず、くはしくかの一部の文相にむかひて一流の深義をうべきなり。 【8】 さればこの教・行・信・証・真仏土・化身土の教相は、聖人の己証、当 流の肝要なり。他人に対してたやすくこれを談ずべからざるものなり。あなか しこ、あなかしこ。 P--954   [文明九年丁酉十月二十七日巳剋に至りてこれを清書せしめをはりぬ。]                            [六十三歳 在御判]   みなひとのまことののりをしらぬゆゑ ふでとこころをつくしこそすれ [本にいはく]   [つつしんで『教行証文類』の意によりてこれを記す。けだし願主の所望によるな   り。時に嘉暦三歳戊辰十一月二十八日、今日は高祖聖人(親鸞)の御遷化の忌辰   なり。短慮するにこれをもつて報恩の勤めに擬せしむ。賢才、これを披きて誹謗の詞   を加ふることなかれ。あなかしこ、あなかしこ。]   [外見におよぶべからざるものなり。かつは稟教の趣、わが流において秘せんがた   め、かつは破法の罪、他人において恐れんがためなり。]                               [釈蓮如]